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本日前売り券を買ってきました。通常の展示会とやはり違うのでいろいろ考えるのですが、この展示会の趣旨を養老孟司先生が紹介文を書いているのでそれを引用してみようと思います。 展示が教えること 「新・人体の不思議展」監修委員 東京大学名誉教授 養老孟司 人体は自然の産物である。 しかし、現代人には、その意識はほとんどない。 人体が自然の産物だからこそ、それはタブーとなる。 なぜなら社会とくに都市社会、私の定義するところの脳化社会では、自然は排除されるからである。 したがって人間の自然性を表現する身体、とくにその象徴である死体は「徹底的に」排除される。 そんなものを呈示したら、なにが起こるかわからない。 人心に悪影響があり、その結果世の中が乱れる。 多くの人はそう思うらしい。 それは自然が予測と統御のできないものだからである。 「予測と統御の外にあるものではないか」という疑いを生じさせるものは、社会の禁忌なのである。 したがって人体を展示すると、さまざまな意見が出る。 それはそれでいいと私は思う。 意見を統一する必要など全くない。 ただ、まず言いたいことが一つある。 それは展示されている人体、あれは赤の他人ではないということである。 それならあれは誰か。 あなた自身である。 そう思って見ていただければいい。 そういう視点があれば多くのおかしな意見は泡のように消えるであろう。 もちろん、解剖をはじめたばかりの若い時、私もまた解剖体を赤の他人だと「理屈」で考えていた。 それが赤の他人であれば、それを見ることは、見る方の興味本位だとか、金儲けのためだとか、 さまざまな感想が生じるであろう。 それはじつは間違っている。 私はそう思う。 なぜならわれわれは、人体という存在を、そういう文脈に乗るものとしてそれほど日常的な感想で 見ていることは決してできないからである。 そこにはなにか、強い緊張感があるはずである。 人体の展示について、興味本位だとか、金儲けだとかいうのは、 日常の文脈に死体を戻していっているのである。 それは単なる理屈にすぎない。 死体を目の前にして、自分が日常感覚でいられるかといったら、 ほとんどの人がいられないことに気づくであろう。 ではその「異常な」と自分には思われる感覚を、最後まで詰めていったらどうなるか。 そこで見ている人体はじつは自分だという「感覚」に、いずれは気づくはずである。 と書いてあり僕自身もそうかもしれないと納得できました(ちょっと恐いけど) 来月子供たちも連れて自分の体を探検しに行ってこようと思います
by tamd2
| 2005-06-22 13:19
| ジブン
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